Masuk私は寝室を飛び出し、衣装部屋へ向かった。
小さなバッグに着替えと財布、薬を詰めた。震える手でファスナーを閉じる。 奏汰の服も要る。薬と、保険証も。
あの子を連れて、ここを出る。 バッグを抱え、奏汰の部屋へ向かった。 ドアノブを回す。開かない。
「奏汰。ママよ」 ドアを叩いても、返事はない。 「そこにはいない」 「ひっ」 すぐ後ろに、正臣が立っていた。 視線が私のバッグへ落ちた。 「奏汰は?」 「母さんに預けた」 「……いつ」 「君が荷物を詰めている間に」 バッグの持ち手を握り締めた。 私が服を選んでいる間に。奏汰と出ていくつもりで、薬を確かめている間に。 「迎えに行く」 横を通ろうとすると、腕をつかまれた。 さっき指を一本ずつ剥がされた痛みに、息が詰まった。 「会わせるなと言ってある」 「私は母親よ。あなたが勝手に——」 正臣の手が上がった。 思わず頬をかばった。 何も当たらなかった。 目を開けると、正臣は私の顔を見ていた。 その口元が、わずかに緩んだ。 「おとなしくしていろ」 低い声だった。 「また痛い思いをしたいのか」 私は首を振りかけ、止めた。 「奏汰を返して」 正臣は私の腕を離した。 「バッグを戻してこい」 それだけ言って、廊下を戻っていった。 *** 夕方、親族の食事会が始まった。 食堂へ入ると、奏汰がいた。 駆け寄ろうとして、その隣の女が目に入った。 私が奥様として座るべき席に、莉乃が座っていた。 八年間、私が座ってきた正臣の隣の席。 食器の位置も、ナプキンの折り方も、私が決めたままだ。 私は莉乃の椅子へ向かった。 「そこをどきなさい」 莉乃は膝の上のナプキンを撫でたが、立たなかった。 「正臣様が、今日はここへ座るようにと」 「そこは私の席よ」 「灯里、遅い」 正臣は当然のように私を見た。 奏汰は莉乃の隣に立っていた。私と目が合うと、すぐ莉乃の袖を握った。 「奏汰、こっちへ」 「莉乃さんの隣がいい」 親族の誰かが小さく笑った。 「まあ、すっかり懐いて。莉乃さんのほうが久条家の奥様らしいわ」 胸の前を押されたように、息が止まった。 知らないだけだと思っていた。昨夜のことも、奏汰へもう一人のママだと教えたことも、正臣が説明すれば、この人たちだって異常だとわかるはずだった。 私は正臣を見た。 「この人たちに、何を話したの?」 「必要なことは話してある」 「必要なことって何?」 正臣の母が、空いている給仕台を指した。 「灯里さん、立っていないで給仕を手伝って。莉乃さんはこれから久条家を支える方なの」 私だけが知らされていなかった。 「正臣。どういうこと?」 「こういうことだ」 正臣は懐から白い封筒を出した。食卓の中央へ置かれた紙には、離婚届と印刷されている。 文字を見ても、すぐには意味が入ってこなかった。 離婚。 昨夜、別の女を私の名前で呼んで抱いた男が、翌日には私を妻の席から消そうとしている。 「莉乃を正式に迎える」 正臣の声は、食事会の挨拶のように穏やかだった。 「灯里、君は署名すればいい」 「しません」 考える前に言っていた。 「妻の席も、母の席も、あなたが勝手に人へ渡せるものじゃない」 莉乃が目を伏せた。 「私、奪うつもりは……」 「だったら、その席からどきなさい」 莉乃は動かない。 私は椅子の背に手をかけた。 「どいて」 「灯里。場を乱すな」 「乱したのはあなたでしょう。私の席にこの女を座らせて、離婚届まで出して。奏汰の前で何をしているの?」 正臣の顔が変わった。 ガチャン、と皿がテーブルを擦った。 正臣の手に掴まれた白い皿が、私の顔へ飛んできた。 「きゃっ」 誰かが悲鳴を上げた。 避けきれなかった。頬を熱い痛みが走る。 パリン、と床に落ちた皿が割れた。床に落ちた破片が、カラン、カラン、と転がった。 血が顎へ落ちた。 「見ただろう」 正臣は親族へ向き直った。 「彼女は不安定だ。昨夜から感情的で、今日も大事な食事会をぶち壊している」 「違う!」 声が震えた。 「あなたが皿を投げたんでしょう!」 私は親族を見た。 「見ていたでしょう。今、正臣が私の顔へ投げた」 誰も答えなかった。 正臣の母は床の破片を見ただけだった。莉乃は奏汰の肩を抱き、自分が守っているような顔をしている。 「警備を!この狂った女を奏汰に近づけるな!」 正臣が命じた。 扉の近くにいた男たちが動き、私の腕を掴んだ。 「離して」 「来い、この女」 この女。 前は、奥様と呼ばれていた。朝の花を替える使用人も、玄関に立つ警備も、私をそう呼んだ。 正臣が一言命じただけで、私はこの女になった。 奏汰は、私を見ていた。 泣いていなかった。怖がってもいなかった。 憎々しげに、私を睨んでいた。 皿が当たった頬より、その目のほうがこたえた。 男たちは私を玄関へ引きずった。夜の空気が頬の傷にしみる。門の外へ押し出され、膝が石畳についた。 背後で門が閉まった。 鉄越しに、正臣が立っている。 「奏汰に会いたければ、這いつくばって戻ってきて、莉乃に謝罪しろ。離婚についても、話し合ってやる」門の向こうで、莉乃が奏汰の肩を抱いていた。
奏汰はまだ、私を睨んでいた。手を外すためではなかった。 正臣が離しかけた手を、莉乃は自分の喉へ押し戻した。 「やめないで」 正臣の目が、わずかに見開かれる。 怖い。 このまま力を入れられたら、本当に殺されるかもしれない。 それなのに、身体の熱はさっきより強くなっていた。 正臣が灯里へ向ける激しい感情を、今は自分の身体だけが受けている。 「もっと、私を灯里だと思って」 莉乃は鏡の中の正臣へ笑いかけた。 「灯里を罰したいなら、全部、私にしてください」 正臣の手が喉から離れ、顎をつかむ。 「名前を言え」 「久条灯里です」 莉乃は、鏡の中の自分を見たまま答えた。 振り向かされ、もう一度唇を奪われた。 「そうだ。君は僕の灯里だ」 その言葉だけで、脚のあいだが疼いた。 莉乃は正臣の手を取り、濡れた場所へ導いた。 「灯里。もうこんなに濡れてる。やっぱり、僕がいいんだね」 「はい……正臣さまがいいです。正臣さまの灯里にしてください」 腕を取られ、ベッドへ押し倒される。 両手首を頭の上で押さえられても、莉乃は目をそらさなかった。 自分から脚を開き、正臣の腰を引き寄せる。 「僕を捨てて、気持ちよかった?」 「いいえ」 「嘘をつくな」 ぬるりと、正臣が一気に入ってきた。 身体の奥まで押し広げられ、莉乃の喉から声が弾ける。 「ああっ……正臣さまっ」 腰を強く打ちつけられる。 痛みのすぐあとを、熱い快感が追ってきた。 ベッドが軋むたび、胸が揺れる。 正臣の手が乳房をつかみ、赤く残るほど強く揉んだ。 「あっ……そこ、もっと……」 「あの男に、こうされたかった?」 「違います……私が欲しいのは、正臣さまだけ」 「なら、証明して」 動きがさらに激しくなる。 深く突かれるたび、身体の奥から甘い痺れがせり上がった。 濡れた場所が擦れるたび、くちゅ、と小さな音が鳴る。 その音を聞かれることさえ、恥ずかしいのに嬉しかった。 莉乃は正臣の肩へ爪を立てる。 逃げるためではない。もっと深く受け入れるために、腰を持ち上げた。 「もっと……正臣さま、もっとください」 正臣が灯里へ向ける怒りを、もう自分から求めている。 灯里が拒んだものを、自分だけが受け取っている。 それが嬉しかった。
発表会場で、燎と柊吾が大勢の前でにらみ合っていた、その頃。 正臣が向かったのは、ホテルの出口ではなかった。 莉乃は正臣に腰を抱かれたまま、最上階行きのエレベーターへ乗った。 廊下の奥にある部屋へ入る。 扉が閉まり、鍵がかかった。 正臣の手が離れる。 莉乃が振り返るより早く、背中が扉へ押しつけられた。 「正臣さま……」 顎をつかまれ、顔を上げさせられる。 正臣の目に、会場で見せた優しさはなかった。 「僕の前で、あの男を選んだ」 莉乃は否定しなかった。 正臣が見ているのは、自分ではない。 鷺宮燎の隣へ歩いていった灯里だ。 そう分かった途端、下腹に甘い熱が集まった。 「ごめんなさい、正臣さま」 灯里の声を真似て、莉乃は謝った。 正臣の親指が、唇を強く押す。 「謝れば、許されると思っているのか」 莉乃は正臣を見上げた。 怒っている。 自分だけを見て、激しく怒っている。 それがたまらなく嬉しかった。 「僕を捨てた罰を与える」 灯里として、罰してもらえる。 その言葉に、莉乃の全身が甘く痺れた。 脚のあいだが甘く疼き、熱い蜜が滲んだ。 「はい。罰してください、正臣さま」 莉乃は正臣の手首へ自分から触れた。 「私が悪いんです。あなたの前で、鷺宮さんを選んだから」 正臣の目が細くなった。 莉乃が演じているのは、壇上で燎の隣へ歩いた灯里だ。正臣が怒っている相手も、目の前にいる莉乃ではない。 それでよかった。 今、正臣の頭の中にいる女を、自分の身体で独占できる。 莉乃は正臣のネクタイへ手をかけた。結び目をゆるめ、シャツのボタンを一つ外す。 「私を、正臣さまの望む灯里にしてください」 正臣の手を取り、自分の腰へ置いた。 ためらいはなかった。ここまで灯里の服を着て、声を真似て、妻の席へ座るために来たのだ。 「もう一度言って」 「鷺宮さんを選んで、ごめんなさい」 言い終わる前に、唇を塞がれた。 後頭部をつかまれ、扉へ押しつけられる。強く噛まれた唇が痛んだ。莉乃は逃げず、正臣の首へ両腕を回した。 「もっと……怒ってください」 正臣の指が、紺のドレスの肩紐へかかる。 「この服も、あの男のために着たのか」 「違います。あなたに選んでもらうためで
「俺に同意を求めるな」 燎の声は低かった。 いつもなら、何を言われても人を食ったように笑う。 けれど今は、口元に笑みがなかった。 会場のざわめきが、また止まった。 壇上の柊吾は、マイクを持ったまま笑った。「自分以外が最善だと認めるのは、難しいか」「勘違いするな。おまえが最善だったことはない」 燎の言葉を気にした様子もなく、柊吾が壇上を降りる。 記者たちが道を空けた。 燎は私の腰から手を離さなかった。 柊吾が近づくほど、その指に力がこもる。 燎は私を柊吾に近づけたくないのだろう。 だけど、私には彼に聞きたいことがあった。 莉乃が柊吾へ送った合図。 その直後に発表された、正臣の後任。 偶然とは思えなかった。「どうして、あなたが正臣の後任なの」 私が聞くと、柊吾の足が止まった。「それは、久条志津子に聞くべきだ」「あなたは断らなかった」「断る理由がないからね」「父の会社を、何に使うつもり?」「君が捨てた会社だろう」 声が低くなった。「捨ててない。奪われたの」 柊吾の眉が、わずかに上がった。「知りたい?」「ええ。それに、あなたが莉乃と何を企んでいるのかも」 柊吾の視線が、私へ向いた。「燎は、僕がSENOVAを追われた理由まで話した?」「何も聞いていないわ」「そうだろうね。昔から、自分に都合の悪いことは話さない」 燎の眉間に、深い皺が寄った。 挑発だと分かっている。 それでも、私だけ何も知らないことが気になった。 燎の腕が、私を胸元へ引き寄せた。 背中が燎の胸に触れる。 一歩出ようとした私を、腰に回った手が引き戻した。 邪魔しないで、と言いたかった。 けれど、その手を振りほどく気にもなれなかった。 柊吾の視線が、私の腰にある燎の手へ落ちた。「莉乃は自分で選んだ。欲しいものを手に入れるためにね」「質問に答えていないわ」「久条正臣は、失った妻を取り戻したい。相良莉乃は、その妻になりたい。利害が一致しただけだ」 正臣が取り戻したいのは、私ではない。 逆らわず、家を出ず、いつも笑って待っている妻だ。 莉乃は、その通りに振る舞っている。 八年一緒に暮らしたことも、奏汰を産んで育てたことも、正臣には「失った妻」の一言でしかないのだろうか。 分かっていたはずなのに、柊吾に「利害」と呼ばれると腹
「CARE-LINKも、私が完成させます」 莉乃の声が、静まり返った会場に響いた。 正臣の灯里は自分だと言っただけでは、もう足りないらしい。 私の仕事まで、自分のものにすると宣言した。 正臣が振り返る。 私と同じ紺のドレス。同じ位置でまとめた髪。同じ耳飾り。 正臣の目が、一つずつ確かめるように莉乃の姿をたどった。 最後に、顔を見る。 「灯里」 迷いのない声だった。 「はい」 莉乃も迷わず答えた。 正臣の手が、莉乃へ伸びる。 莉乃は赤い絨毯を進み、その手を取った。指を絡め、私へ勝ち誇った笑みを向ける。 「正臣」 義母の声が飛んだ。 「その女を連れて、どこへ行くつもりです」 「帰ります」 「あなたに戻る席はありません」 正臣は母親を見なかった。 「代表を解任されることは、どうでもいいと言ったはずです」 莉乃の手を強く引き寄せる。 「僕には灯里がいる」 胸元へ抱かれ、莉乃がうっとりと目を細めた。 燎の腕が、私を背中へかばうように動いた。 けれど、正臣はもう私を見ていなかった。 「正臣さま」 莉乃が甘く呼ぶ。 「私が、おそばにいます」 「分かっているよ」 正臣は莉乃の頬に触れた。 私に傷をつけた手で、私と同じ顔を撫でている。 気味が悪かった。 それでも、目をそらさなかった。 これが正臣の選んだ灯里だ。 自分に逆らわず、いつでも優しく笑い、何をされても離れない女。 「行こう、灯里」 正臣が莉乃の腰を抱いた。 報道陣のカメラが、一斉に二人へ向く。 「久条前代表、その女性を奥様として扱うということですか」 「離婚は成立しているのですか」 「相良莉乃さんとの関係を説明してください」 正臣は答えなかった。 莉乃だけが振り返った。 「正臣さまの妻は、私です」 莉乃は報道陣へ、堂々と微笑んだ。 記者たちが顔を見合わせ、低いざわめきが広がった。 正臣が莉乃の腰を抱き直した。 莉乃が見上げると、正臣も幸せそうに笑った。 私の名前を使い、私と同じ顔で、二人は本当の夫婦のように寄り添っている。 幸せそうであればあるほど、歪んだ絵を見ているようで、気持ちが悪かった。 二人が会場を出ていく。 扉へ向かう途中、莉乃が一度だけ振
ざわめきが止まる。 「鷺宮さん」 義母の声が飛んだ。 「久条グループの創立記念式典で、勝手にご自分の発表をなさるなんて。相変わらず無礼ね」 燎はマイクを持ったまま、義母を見た。 「本人の返事も聞かず、灯里を後継者にすると発表したのは、あなたが先だ」 「久条家のことです。あなたには関係ありません」 「灯里のことなら、関係ある」 会場が息を呑んだ。 義母の目が、わずかに細くなる。 正臣さえ口をつぐむ目を、燎は正面から見返した。 私のことなら関係がある。 三百人の前で、迷いもなく言い切った。 勝手な人だと思った。 それなのに、うれしかった。 久条家の妻としてでも、桐谷の娘としてでもない。燎は、私が作ったものを私の名前で世に出そうとしている。 それをうれしいと思う自分まで、見抜かれていそうで悔しかった。 こんな場所で、私の人生を勝手に取り合わないで。 燎はまだマイクを下ろさない。 いったい、何を言うつもりなの? 会場中の視線が、燎へ集まる。 「新しい医療データ会社を作る」 燎が私を見た。 「その会社を、君に贈る」 一拍遅れて、会場中から声が上がった。 「SENOVAが、桐谷博士のために新会社を?」 「会社を一つ、贈るということですか」 「鷺宮社長、桐谷博士とはどういうご関係ですか」 報道陣が一斉にマイクを向ける。 一瞬、言葉が出なかった。 後ろの席で椅子が鳴り、久条の役員たちが顔を見合わせた。さっきまで莉乃を見ていたカメラが、今はすべて私へ向いている。 私の仕事に、会社一つを賭ける。 しかも久条の創立記念式典で、正臣と義母の目の前で。 この男は、人の人生を変える話を、明日の予定のように言う。 嬉しくないはずがない。 正臣に道楽と呼ばれ、莉乃に名前まで奪われた仕事を、燎は会社にする価値があると言ってくれた。 八年間、聞きたかった。 私の仕事には価値がある。続けていい。そう言ってほしかった。 でも、喜んだまま受け取るわけにはいかない。 義母と燎は違う。燎は私の仕事を認めている。それでも、会社をもらって社長にしてもらうだけでは、また誰かに人生を決めてもらうことになる。 会社を作ったことなんてない。 今の私にできるのかも、正直分からな
「君は、どうしたい」 燎の問いが、静まり返った会場に残った。 正臣の手は、まだ私へ差し出されている。 「灯里」 正臣が私の名を呼んだ。 「僕を愛していなかったと、ここで言えるのか」 卑怯だった。 会社でも、特許でもない。 大勢の前で、私たちの八年間が愛だったのか、嘘だったのか、答えろと迫っている。 こんな場所で、愛しているかと迫るなんておかしい。 でも答えなければ、正臣は私の沈黙まで「愛している」に変える。 愛していなかったとは、言えなかった。 正臣を愛していた。 結婚式の日、彼の手を取った時は、この人となら何があっても生きていけると思った。 奏汰が生まれた夜、正臣は泣きながら私を抱きしめた。 初めて三人で朝を迎えた時、この幸せが一生続くと信じた。 嘘にはできない。 「私、あなたを愛していた」 会場がざわめいた。 燎を見る者もいた。 私も燎を見た。 彼の顎が固くなり、下ろした手が握られている。 聞きたくないはずなのに、止めなかった。 私が正臣との八年間を、自分の言葉で終わらせるまで待っている。 だから、私も目をそらさなかった。 正臣の目が大きく開いた。 すぐに、嬉しそうな笑みが浮かぶ。 「分かっている。だから、おいで」 正臣が私の手首をつかんだ。 そのまま引き寄せられ、甘い香りが近づく。 「今なら、まだ許せる」 耳元へ落ちた声も、昔と同じだった。 同じ体温。 同じ香り。 同じ声。 それが悲しくて、腹が立った。 八年前なら、迷わず取った。 ほんの少し前まで、奏汰と会社を返すと言われれば、戻るしかないと思っていた。 けれど、その手は私のスマートフォンを壊した。 私の頬へ皿を投げた。 逃げようとした私をつかみ、部屋へ閉じ込めた。 「愛していたの」 過去の言葉として、もう一度言った。 私は正臣の指を一本ずつ外した。 正臣の笑みが消えた。 「仕事を奪われる前のあなたを。私の話を聞いてくれた頃のあなたを。私を妻ではなく、灯里として抱きしめてくれたあなたを愛していた」 「僕は変わっていない」 「変わったわ」 声が震えた。 「それとも、最初から私が従っていたから、優しかっただけなの?」 正臣は、







